第1回
江崎玲於奈氏 (ノーベル賞物理学者) に聞く
“企業における創造性”

私の人生のシナリオ

— では、ご自身のシナリオについて、お聞かせください。

私は昭和の戦争の中で育ち、戦雲暗くたれこめる1944年に東京大学理学部物理学科に入学しました。そして翌45年に戦争が終わり、敗戦直後の47年に大学を卒業しましたので、若い時代を変動の中に生きた世代です。日本の産業が、崩壊に瀕した時代でしたね。その時、私自身が人生のシナリオをどういう風に描いたでしょうか。実をいうと、そのとき学校で習った量子力学や相対性理論など新しい物理学が、私の未来を方向づけてくれました。ちょうどその頃は、物理学の世界観・世界像が変わるような時代でした。量子力学に出合い、私は感動したわけです。私だけじゃなしに、当時の物理学者はみんな新しい学問に感動していました。しかし、大学も荒廃し、学校に残っても実験ができるような状況ではなかった時代です。そこで私自身が書いたシナリオは、量子力学を、企業すなわち工業に持ち込むというものでした。その当時の企業で量子力学なんて知っている人はゼロだったわけですから、これは絶対に将来必要だ、量子電子デバイスも不可能ではない、と考えてエレクトロニクスの企業に入りました。

私が卒業した年は、エレクトロニクス分野では非常に特別な年でした。アメリカのベル研究所で世紀の発明トランジスタが誕生しました。いわゆる半導体デバイスが発明された画期的な年なんです。それまでの電子機器は、真空管を使っていました。例えば、アメリカのB29という有名な爆撃機は1,000以上の真空管を使った機器を搭載していた。ところが、真空管も限界に近づいてきた時期に、半導体という非常に革新的なものが生まれた。その革新性は、真空管をいくら研究しても改良してもトランジスタは生まれてこない、という点にあります。つまり、将来というものは、必ずしも現在の延長線上にはない。このとき、将来は、科学や技術のブレイクスルーやイノベーションによって創られるということを体験しました。

私が東京通信工業株式会社 (現在のソニー株式会社) で、量子力学を工業的に活用しようとした結果、創ったのがエサキダイオードです。それは57年で、その翌年にはベルギーのブリュッセルでの国際会議で、その成果を発表しました。エサキダイオードは、日本では評価してくれる人が誰もいないんですよ。ところがその国際会議で、トランジスタを発明したショックレー先生が、私の研究を非常に立派な仕事だと大変誉めてくれたものですから、エサキダイオードは一躍、世界的に有名になりました。ちょっと余談になりますが、つい最近、英科学誌Natureの2010年3月4日号に”Esaki diode is still a radio star, half a century on. (エサキダイオードは50年経ってもよく働く) ”という研究も発表致しました。

評価とは目利き

少なくともその当時の日本の社会は、革新的な技術であったエサキダイオードを評価できなかった。そういうことが問題だと思うんです。アメリカでは外国の人たちがたくさん活躍しています。その理由の1つは、妥当な評価が受けられる国だという点にある。日本という国は、先入観を持ってものを見る傾向が強い国なんです。江崎というのはノーベル賞を貰った江崎だとかですね。そういう点は問題ですね。評価の重要な点は、虚心坦懐であるということです。日本で虚心坦懐になるのは案外、難しいことなんですね。

—先入観を持たない目利きが必要ですね。

そうです。基本的には目利きですよね。

次は、企業における創造性とその答えについて、です。

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